洗濯家 中村祐一

1984年3月1日生まれ。 長野県伊那市のクリーニング会社「芳洗舎」3代目。

「洗濯でセカイを変える」という信念のもと、日本中の家庭にプロの洗濯ノウハウを伝え続ける元祖家庭洗濯アドバイザー。「洗濯王子」の愛称で親しまれ、これまでにのべ2000人を超える人々、芸能人、一部上場企業などへも洗濯に関するアドバイスを行う。

幼い頃から家業のクリーニング業を見て育ち一番身近な職業である事やアイロンを持つ祖父や父への憧れなどから、実家のクリーニング店を三代目として継ぐも、日々の仕事のなかで、洗濯やクリーニングの基本的なことでも、世の中の人には意外と知られていない事実に気づかされる。同じ家事でも、料理研究家、整理収納アドバイザーなどは多数存在するのに、家庭の洗濯を教えてくれる専門家がほとんどいない事に注目。効果的でわかりやすい洗濯のアドバイスが、世の中にもっと必要なのではないか?と考えるようになり、「洗濯アドバイザー」という仕事を自ら創りだす。洗濯に関するアドバイスを始めると、日本テレビ「ヒルナンデス」、NHK「ためしてガッテン」など全国放送のテレビをはじめ、各種メディアから次々と出演依頼が殺到しいつしか「洗濯王子」の愛称で呼ばれるようになる。自身の洗濯術をまとめた本を6冊出版、大手メーカーとのコラボレーションなど、活動の幅は広がる。2014年には、東京に日本で初めての洗濯専門のスタジオ「Sentaku Studio」をデザインプロデュース。2017年、広島駅前に出来た「edion蔦屋家電」の洗濯コーナーの監修を務めるなど、家庭の洗濯に関する「コトデザイン」が高く評価される。日本を代表する洗濯家として家庭洗濯の「再デザイン」に取り組んでいる。

HISTORY

●1984年、長野県伊那市に洗濯屋の3代目として生まれる。

1984年2月29日、長野県の伊那市にあるクリーニング屋の3代目として産まれました。ちなみに、戸籍上は3月1日生まれ。これは「4年に1度しかない、2月29日生まれでは何かと不便なことも多いだろう」という両親の想いから、3月1日生まれとして出生届けを提出したから。「祐一」という名前の由来は、母親が当時の大スター「石原裕次郎」のように、誰からも「ゆうさん、ゆうさん」と呼ばれ慕われるようになってほしいという願いから付けたそうです。長男だから、「裕一郎」にしようとしたみたいですが、父に相談すると、裕一郎では長すぎると言われ「裕一」と「祐一」で迷った末に決まりました。余談ですが、雑誌の取材などで、名前をこの「裕一」と間違われることが頻繁にあります(笑)

実家のクリーニング屋はもともと祖父の兄・芳平がやりたかった仕事だったらしいのですが、戦争で死んでしまったため、祖父が意思を継いで始めたのだということを聞いています。会社の名前は「芳洗舎(ほうせんしゃ)」というのですが、これは芳平の「芳」を取って「芳洗舎」としたのだと聞きました。そんなクリーニング店の息子として生まれ育ちます。

●小・中・高と野球に夢中になり、実は洗濯には全く興味がなかった。

小学校2年生の時に、地元の球場へ巨人の2軍の試合を見に行ったことがきっかけで自分も野球をやりたいと思うようになり、小学校3年から野球を始めます。野球では、下級生の頃からレギュラー入りしたりキャプテンを任されるなどそれなりに活躍をしました。一方、この頃はまだ全く洗濯に興味がなく、やったことのある洗濯といえばユニフォームを洗濯機に入れる前に石鹸でゴシゴシこすることぐらい。よく、「小さなころから洗濯の英才教育を受けたんですか??」って冗談交じりに聞かれたりすることがありますが、そんなことは全然なく洗濯機の動かし方もよくわかっていませんでした(笑)ただ、児童会や生徒会では「物を大事に委員会」の委員長や、福祉委員会の副委員長などをしたり。野球では、スパイクや、グローブを磨くことが妙に性に合っていて、練習よりも磨くことの方が面白かったかもしれません(笑)磨くことでピカピカになるグローブやスパイクが好きでした。今から思うと、洗濯を好きになる要素は当時から持っていたのかもしれません。

●高校卒業後、家業を継ぐことを決意、東京のクリーニング店へ働きに出る。

洗濯を仕事にしようと思ったのは、高校3年の最後の野球の大会が終わった後でした。高校は一応進学校だったので、専門学校を含め9割以上は進学。でも、やりたいこともないのにとりあえず大学行く人が多かった。僕は個人的に、そんな感じで大学行くのは意味がないと感じたので、それなら家業を継ごうと思ったのです。「今どき家業を継ぐなんて珍しいね」とか、「偉いね」とか言われる事が多かったので、周りから見るとかなり異色だったかもしれません(笑)

といっても、この時もまだ洗濯にはなんの興味もなく洗濯が好きだから選んだわけではありませんでした。では、なんで継ごうと思ったかというと、理由は主に3つ。

●父親が腰が悪くてあまり自由に動き回れずにいることで、母親が大変そうだったので助けたいと思った。

●それにともなって、店の経営があまり良くないのがわかっていたので、やりたいこともないのに大学にお金払うのはもったいなくて行く気になれなかった。

●実家のクリーニング屋を無くしたくなかった。

という理由からでした。

母親からは「この仕事継いでも先はないよ??それでもいいの??」って聞かれた記憶が(笑)さらに「祐一は理学療法士とか作業療法士とかが向いていると思うからそういう仕事をするために大学行きなさい」って言われた記憶もあります。それでも、頑として受け付けずに継ぐことを選びました。結果、継いで良かったなと思っています。そういえば、僕がやっているのって回復させる仕事なので本質的には合っているのだと思います。対象が人ではなくて服なだけで。

高校卒業後は、東京のクリーニング店に働きに出ることを決意しました。卒業後、車の免許を取ってすぐ3月の末に上京。練馬の石神井公園にあるクリーニング屋さんで働くことになりました。

修行先は、新宿のど真ん中にあるクリーニング店と、練馬のこのクリーニング屋さんの2軒を両親と事前に見学に行った結果、練馬でお世話になると決めていました。新宿の繁華街の中にあるクリーニング屋さんよりも、練馬の方が僕に合っている気がしたから。両親も同じ意見でした。

●クリーニングの仕事を始めて、洗濯の面白さ、奥深さに気づく。

僕がお世話になったクリーニング店は当時、17店の支店と、本店兼工場を持つ、クリーニング業界では中くらいの規模のクリーニング店。ここは僕のようなクリーニング店の2代目、3代目を受け入れてくれる会社でした。この当時は、僕の他にも8名の先輩が研修生として修行に来ていました。

僕は、会社が借りている3Kのアパートに、先輩3人と一緒に住まわせてもらうことに。3部屋しかないのに、男4人・・・。ご想像の通り、下っ端2人は相部屋で2段ベットで寝るのです(笑)

入社後、僕は、通称「3番店」という駅の近くにあるお店に配属になり、ここでカウンターでの受付係から始めることになりました。

この3番店は、60代後半のおばちゃんコンビが切り盛りしている小さなお店だったけれど、隣に新しくできた33階建ての再開発ビルの一階にリニューアルオープンをすることになっていました。オープンはクリーニング屋が一年で一番忙しい4月。それまで支店の中で後ろから数えた方が早かった売上は、いきなり支店1,2を争うようになります。殺人的に忙しくて無我夢中で働きました。この時には、新しくなったお店に戸惑っていたおばちゃんコンビに、入った直後の僕が仕事教えるという不思議な状態になっていまた(笑)

でも、よく考えると、入ってすぐの新人に、会社のエース級になる支店を任せるのってどうなの??と思うけど(笑)僕はやっぱりこういう責任あるところにいきなり投げ込まれる事が多いんですよね・・・(笑)

忙しさも一段落した夏、工場へ行って作業をさせてもらえることになりました。

初めてのクリーニング作業は、ワイシャツ専用のプレス機でYシャツを仕上げる仕事でした。真夏のYシャツの仕上げ場は室温が50℃近い日もある中1日に250枚程度Yシャツを仕上げる日々が続きました。けれど、「クリーニングの仕事している!」と実感できて作業自体は楽しかったんです。

少しすると、セーターなどニット類の仕上げもやらせてもらえるようになりました。そこで初めて業務用のアイロンを持たせてもらいます。幼い頃見ていた、祖父や父のアイロンをかける姿を思い出して、ひとりでジーンと感動したのを覚えています。

少しずつ出来ることが増えていくに連れて、洗濯に対する興味や関心がどんどん大きくなっていくのを感じました。汚れた服がキレイになっていくその面白さに取り憑かれ、洗濯に完全にハマっていったのです。

働き始めて3年目に入るころには、ひと通り、服のアイロン仕上げは出来るようになっていました。さらに研修生は基本的にやらせてもらえなかった洗い場での洗濯物の洗い方の選定なども、やらせてもらえるようになっていました。しみ抜きなどもやらせてもらいましたが、クリーニング業界お決まりの「これ以上染み抜きできません」というフレーズはここでも頻発していていました。僕はそれに満足できなかったので、休みの日は、他のクリーニング屋さんに行って見学したり、教えてもらったりということもしていました。いろんなことを経験んした東京での3年半の修行期間が終わり、2005年夏、実家に帰ることに。

●実家に戻るも、店の経営は自転車操業。なんとかしなければと思っていたある日・・・

実家に戻った直後、店の経営は自転車操業的でした。諸々の経費、銀行や親戚からの借り入れを返済すると、自分の給料が全く出ません。「どうにか売上をあげてお店を何とかしなければ・・・」と日々悩み、考えていました。

そんなある日、とある書籍の洗濯ページの監修の仕事をすることになりました。

当時「衣類よ集まれ」という洗濯・クリーニングのお助けサイトがあり、管理人のMさんがそこに来た監修の依頼を僕に振ってくれたのです。当時、今と比べたら大した知識も技術もなかった僕が「やって大丈夫なのか??」と不安だったけれど、持てるだけの知識と経験を総動員してなんとか対応しました。

この時の経験で、「こんなペーペーの僕に監修の依頼が来るっていうことは、もしかして家庭向けの洗濯の情報って圧倒的に足りていないんじゃないか??」と気づきます。冷静に周りを見回してみると、料理や整理収納とかの先生は沢山いるけれど、洗濯の専門家らしい人は居ませんでした。「家庭洗濯の専門家という分野を作れば役に立てるかもしれない」という仮説を立てて、その後行動することにしました。

「洗濯 専門家」「洗濯 カリスマ」「洗濯 取材」など、想像できる範囲で、拙い検索キーワード対策をし、ホームページがヒットしてテレビや雑誌などメディアの取材が来るのを祈りました。メディアに出て、「店の宣伝になればいいな~・・・」と、その時は思っていたけれど(笑)その後、本当にメディアから洗濯の取材が少しずつ入るようになっていきました。

●フジテレビの情報番組で「洗濯王子」と名付けられる。

そして2008年、フジテレビの「ハピふる!」というフジテレビの午前中の生活情報番組に出た時に、「洗濯王子」と名付けられます。このネーミングがその後の爆発的なメディア露出を呼び寄せてくれました。

日本テレビ系の全国ネットのお昼の人気番組「おもいっきりイイテレビ」にも出演。みのもんたさんとも生放送で共演。この時、担当ディレクターに「なぜ僕を出演させてくれたんですか??」と聞くと、そのディレクターは「いや~20代には見えない落ち着いた話し方ですね~」と言った後、「それに、洗濯の企画って他に頼める人ないんですよね~」と言いました。この言葉を聞いて、僕は「やっぱりこの仕事が求められている」と確信しました。

この後、出版社から洗濯本の企画をいただき書籍を出版するとメディア露出は爆発的に増え、オレンジページやESSEなどの雑誌をはじめ、とくダネ!、はなまるマーケットなどの、生活情報系の媒体には、ほとんど出演しました。明石家さんまさんなど一流の芸能人の方々とも共演するようになります。

●2011年以降、自分の生き方・使命などを考えるように。

2009年に結婚後、2011年に長女が産まれ、2014年の12月には長男が産まれて僕は現在2児の父でもあり、もちろん自宅でも洗濯担当です(笑)。

長女は、「素敵な未来を紡げるように」と「紬来(つむぎ)」と名づけたのですが、長男は「近視眼的にならず、はるかな未来を思って未来を作れる人になるように」と、「悠来(ひさき)」と名づけました。

長女が産まれた2011年は東日本大震災が起こった年でもありました。この年以降、自分は何のために生きるのか?と考えることが多くなりました。その頃には、ピーク時5000万円近くあった店の借り入れもほぼ返済完了していたこともあり、僕はいろいろと考えた末、洗濯を受け付け、代行する一般的なクリーニングの仕事をやめることにしました。僕は人生をかけて、「もっと多くの人に洗濯の魅力を伝える活動がしたい」と思い、再スタートを切りました。

その後、僕は、自分が感じている洗濯の良さを広めるためにどうすればいいか??と考えた結果、まず「料理教室のような場を洗濯でも創りたい」という思いに駆られ、「SentakuStudio」というコンセプトを作りました。構想から3ヶ月足らずで、物件を決め、メーカーに交渉し洗濯機やアイロン、資金などを調達。2014年3月に東京・神楽坂近くにSentakuStudioをデザインプロデュースしました。2017年には、家電量販店のEdion社からの依頼を受け、広島に出来た「Edion蔦屋家電」の洗濯コーナーを監修するなど、家庭洗濯分野における「コトデザイン」に注目を頂いています。

そして現在、「心地よい日常を洗濯からデザインする」をコンセプトにセンタクアトリエプロジェクトを進行中です。家庭洗濯の「再デザイン」に取り組んでいます。