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この世から、汚れた服を無くしたい。

僕は、クリーニング店の3代目として生まれました。でも、クリーニング屋でありながら、全国の家庭に洗濯を伝えるということをずっと続けてきました。

 

僕がやり始めた当時は「そんなに家庭でできる方法を教えて商売大丈夫ですか??」って、いろんな人に心配していただいたり、同業者からは「そんなこと教えることに何の価値があるのか?」とか「クリーニング屋の仕事が減るからやめてくれ」とか、文句や陰口を言われることも多かった(笑)

それでも、なぜ僕は伝え続けるのか??

それは、「汚れた服を、キレイにしたい」ただただ、そう思っているからなんです。

大げさなことを言えば、「この世から汚れた服を無くしたい」のです。

 

服が汚れることは、僕は不幸なことと思っています。シミや汚れや嫌なニオイといった服の不調は、人間で言えば病気と同じことだから。
だから僕は服の健康を願っています。それは、お医者さんが、人々の健康を願うのと同じようなことだと理解していただくといいかと思います。

 

クリーニング業界は売上がピークの半分に。その意味をどう捉えるか。

 

クリーニング業界にいると「需要がピークの半分になっちゃった」って話がよく上がる。だから、業界内では「もっと需要を高めなければ!」っていう議論が多いんです。でも僕は、この議論にはちょっと違和感がある。

何故かと言うと、ただ単純にクリーニング需要を上げることというのは「服の不健康」を願っているのと同じことになってしまうと思うから。

服のクリーニングの需要が減るということは、人間で言えば医療費が年々減っている様な状態。
だから、僕はクリーニングの需要が減るのは「本来は」喜ばしいことだと思う。

でも、健康な服が増えた結果、クリーニング需要が減ったわけではない。ここが問題。
需要が減った中身が「多くの人が服を大事にしなくなったから」だってことが問題なんです。

だから、追うべきは、「クリーニング需要の金額」ではなく

 

・助かるはずの服が助からなかった数 とか

・本来必要のない服がどのくらい作られてしまったのか? とか

・ まだ着れるのに捨てられてしまった服の数 とか

 

こういう数字の増減を追うべきではないかなと思っています。

だから業界内での議論を見ていると焦点がずれているような気がしてならないんです。クリーニング需要を上げることに躍起になるのではなく、捨てられる服を減らすことに注力すべきではないか?と思うのです。

一説によると、年間20億着の服が捨てられてしまうと言われています。こういう状況って、やっぱおかしいですよね。

 

だから僕は、洗濯を伝え続けている。

 

僕は、洗濯屋としてクリーニングに出してもらうことよりも、服が健康になること、汚れがこの世から無くなること、その事のほうを優先させる生き方を選びました。

だって、僕一人でクリーニングやシミ抜き受け付けても、その何倍も汚れてしまって病んでいる服が増えてしまう。この世の服から、すべての汚れを無くしたいと思ったら、服を着る人自身が、服の健康管理(=上手な洗濯)を出来ないといけないんです。だからこそ、家庭でできるだけ上手に洗濯して欲しいのです。「服を大事にするということ」もっと伝えていかなきゃいけないと思っています。

 

 

洗濯でセカイを変えよう!

 

「どうせ洗ってもキレイにならない。」

「洗濯ってめんどくさい。」

「洗濯って面白くない。」

 

今、多くの人が持っている、洗濯に対する様々な常識。そんな常識を超えて、僕は洗濯に対する、新しい価値観、文化を創りたい。

そうすれば、今よりもっと服はキレイになるし、もっと長持ちするし、もっと気持ちよく着れる。

一着でも多くの「服」、一人でも多くの「人」を洗濯によって幸せにすれば、セカイはちょっと良くなるはず。

そう信じています。

 

だからこそ・・・・

政治家が「政治」でセカイを変えようとしているように。

音楽家が「音楽」でセカイを変えようとしているように。

料理家が「料理」でセカイを変えようとしているように。

洗濯家の僕は、「洗濯」でセカイを変えて行きます。